【ローマ6:6,8,11】
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。・・・わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。・・・このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
キリストを信じることの中身には、古い自分がキリストと共に死に、キリストと共に生きることが含まれます。
キリストと共に生きる!! 素敵な人生です。
そのために、古い自分が死のうと努力すればいい?
その努力をすればするほど、古い自分が生き返っていきます。キリストと共に生きるすばらしさに近づける気がしません。
「信じます。」 また「考えなさい。」と、あります。
自分はすでにキリストと共に死んだ、と信じて考えるわけです。
そう信じて考えるのは、キリストを信じる者は、キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に生きることになるのが事実だからです。
主が成してくださる事実を、信じ、考えることによって、本当に信じる者の現実となります。
主に栄光!
2013年9月5日木曜日
イエスさまの愛にとどまる
【ヨハネによる福音書 15:9~12】
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
わたしたちに喜びが満たされる方法を、イエスさまは教えてくださいました。
その方法とは、わたしたちがイエスさまの愛にとどまることです。
どうやって留まるのかというと、自分がイエスさまから愛されたように、互いに愛し合うことによってです。
つまり、イエスさまがわたしたちを愛して捕らえてくださったので、わたしたちもイエスさまの愛にとどまれば良いわけです。
イエスさまの愛にとどまろうとして、聖書を読んだり祈ったりすることも大切です。でも、そうしながら、もし心の奥で誰かを憎んでいたら...?
イエスさまから愛されているのに、人を愛そうとしないまま、イエスさまにつながっていようとするのには無理がありそうです。愛することって大切ですね。
イエスさまの愛にとどまりましょう。すでにイエスさまが愛してくださり、捕らえてくださいましたから。
2013年7月5日金曜日
主と共に生きる
【ローマ6:6,8,11】
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
キリストと共に生きる!
そうなりたいです。キリストと共に生きるのは、古い自分が死ぬからです。
どうしたら古い自分が死ぬでしょう?
古い自分が死のうと努力する?
その努力をすればするほど、生きている古い自分が見えてくるだけです。
なお罪の奴隷に留まってしまい、キリストと共に生きるすばらしさに近づけません。
じゃあ、どうすればいいの?
信じることと、考えることが勧められています。
自分はすでにキリストと共に死んだ、と信じて考えるわけです。
そのとき、主と共に生きることが、わたしたちの事実となります。
主に栄光!
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
キリストと共に生きる!
そうなりたいです。キリストと共に生きるのは、古い自分が死ぬからです。
どうしたら古い自分が死ぬでしょう?
古い自分が死のうと努力する?
その努力をすればするほど、生きている古い自分が見えてくるだけです。
なお罪の奴隷に留まってしまい、キリストと共に生きるすばらしさに近づけません。
じゃあ、どうすればいいの?
信じることと、考えることが勧められています。
自分はすでにキリストと共に死んだ、と信じて考えるわけです。
そのとき、主と共に生きることが、わたしたちの事実となります。
主に栄光!
2013年6月27日木曜日
事実は経験に
【エフェソ2:8】
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
「あなたは救われていますか?」と聞かれたら、どう答える?
キリストを信じているなら、「わたしは神さまの恵みにより救われています。」と答えられます。それが「事実」ですから!
ときどき、御言葉の事実と自分の経験にギャップがあることがあります。たとえば放蕩息子のお兄さんのように。
彼いとっての事実は、父親から愛されている子でした。でも彼の経験は「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(ルカ15:29)と言っているように、愛されている子ではなく、奴隷のようでした。
事実と経験がピッタリ合っていれば平安ですが、合っていないと、その分、不満や不安が広がるでしょう。
「事実」は、「救われました。」です。神さまは、罪のために死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし、キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(エフェソ2:5,6)。
神さまからが成してくださった事実を受け取りましょう。キリストを信じる信仰によって。
事実は経験となり、主にある平安が満ち溢れますように。
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
「あなたは救われていますか?」と聞かれたら、どう答える?
キリストを信じているなら、「わたしは神さまの恵みにより救われています。」と答えられます。それが「事実」ですから!
ときどき、御言葉の事実と自分の経験にギャップがあることがあります。たとえば放蕩息子のお兄さんのように。
彼いとっての事実は、父親から愛されている子でした。でも彼の経験は「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(ルカ15:29)と言っているように、愛されている子ではなく、奴隷のようでした。
事実と経験がピッタリ合っていれば平安ですが、合っていないと、その分、不満や不安が広がるでしょう。
「事実」は、「救われました。」です。神さまは、罪のために死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし、キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(エフェソ2:5,6)。
神さまからが成してくださった事実を受け取りましょう。キリストを信じる信仰によって。
事実は経験となり、主にある平安が満ち溢れますように。
2013年6月11日火曜日
キリストの愛にとどまる
【ヨハネによる福音書 15:9~12】
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
イエスさまは、「わたしはまことのぶどうの木、・・・。わたしにつながっていなさい。」と話し出して、上の言葉を語られました。
コンビニだって7時~11時より、24時間開いている方が便利です。イエスさまにつながっているのも、年中無休の方が喜びが満ちます。
どうすれば、いつでも、どんなときでも、イエスさまにつながっていられるのでしょう?
「わたしの愛にとどまりなさい。」とも、イエスさまはおっしゃっています。
すでにイエスさまが、とらえてくださいました! だからその愛にとどまりなさい、というわけです。
イエスさまの掟を守るなら、イエスさまの愛にとどまることになります。イエスさまの掟は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」です。
イエスさまにつながろうとして、聖書を読んだり祈ったりしたとしても、もし誰かを憎んでいたら...? 人を愛そうとはしないで、イエスさまにつながっている、というのには無理がありそうです。
掟を守るのは、最初は苦労するものです。慣れていないですから。焦らず、少しずつですね。
少しずつ、でも確かに、イエスさまの喜びがわたしたちの内にあり、わたしたちの喜びが満ちてきます。
イエスさまの愛にとどまりましょう。すでにイエスさまがとらえてくださいましたから。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
イエスさまは、「わたしはまことのぶどうの木、・・・。わたしにつながっていなさい。」と話し出して、上の言葉を語られました。
コンビニだって7時~11時より、24時間開いている方が便利です。イエスさまにつながっているのも、年中無休の方が喜びが満ちます。
どうすれば、いつでも、どんなときでも、イエスさまにつながっていられるのでしょう?
「わたしの愛にとどまりなさい。」とも、イエスさまはおっしゃっています。
すでにイエスさまが、とらえてくださいました! だからその愛にとどまりなさい、というわけです。
イエスさまの掟を守るなら、イエスさまの愛にとどまることになります。イエスさまの掟は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」です。
イエスさまにつながろうとして、聖書を読んだり祈ったりしたとしても、もし誰かを憎んでいたら...? 人を愛そうとはしないで、イエスさまにつながっている、というのには無理がありそうです。
掟を守るのは、最初は苦労するものです。慣れていないですから。焦らず、少しずつですね。
少しずつ、でも確かに、イエスさまの喜びがわたしたちの内にあり、わたしたちの喜びが満ちてきます。
イエスさまの愛にとどまりましょう。すでにイエスさまがとらえてくださいましたから。
2013年6月5日水曜日
神さまに近づく
【エフェソ2:16-18 3:11,12】
十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
・・・
これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。
神さまに近づけられると、どんな気持ちになる?
神さまは憐れみ深く、この上なく愛して下さる方ですから(エフェソ2:4)、うれしくなります。うれしくて、もっと近づきたくなります。
神さまにもっと近づくには?
神さまは、わたしたち一人ひとりを、キリストの血によって近づけ、「一つの体」とし、「一つの霊に結」んでくださいました。これが教会ですね。神さまは教会を御自身に近づけられます。
神さまが近づけてくださるので、わたしたちはキリストに対する信仰により、確信を持って、大胆に神さまに近づくことができます。
教会って、とてもすごいです。一つの体とされ、一つの霊に結ばれて、神さまに近づき、神さまとの豊かな交わりに入れていただけます。
教会は、神さまがキリストによって実現された永遠の計画に沿うものです。
ハレルヤ!
2013年5月28日火曜日
主の鍛錬
【ヘブライ人への手紙12:5,6】
また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
「可愛い子には旅をさせろ」というのは、子どもへの親の愛ですが、主も愛する者を鍛えられるのですね。
どのように、わたしたちを鍛えてくださるでしょうか?
上記聖句の1章前。11章には、大勢の信仰者が出てきます。この人たちは、主に鍛えられた人たちでもあります。
その中の一人にサラがいます。サラは「不妊の女」であり、さらに「年齢が盛りを過ぎ」たとき、その内には「子をもうける力」が宿り、「多くの子孫が生まれ」ました。
主に鍛えられた人たちは、弱くされました。体や気持ちが弱くされたとき、内側には主の命があふれました。同じ様子が、他の人たちからも読み取れます。
人間の親は、可愛い子に旅をさせて、たくましく育てようとします。主は愛する者を鍛えて、弱くしようとなさっています。
聖書の他のところには、次のようにもあります。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(2コリント4:16)
主はわたしたちを鍛えて、わたしたちの「外なる人」を弱くしてくださいます。すると「内なる人」(イエスさまの命に生きる人)は新たにされます。
主は愛してくださいます。喜んで弱くされましょう。わたしたちの「内なる人」は日々新たにされ、主は「御自分の神聖にあずからせ」てくださり、「義という平和な実を結ばせ」てくださいます。(ヘブライ12:10,11)
また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
「可愛い子には旅をさせろ」というのは、子どもへの親の愛ですが、主も愛する者を鍛えられるのですね。
どのように、わたしたちを鍛えてくださるでしょうか?
上記聖句の1章前。11章には、大勢の信仰者が出てきます。この人たちは、主に鍛えられた人たちでもあります。
その中の一人にサラがいます。サラは「不妊の女」であり、さらに「年齢が盛りを過ぎ」たとき、その内には「子をもうける力」が宿り、「多くの子孫が生まれ」ました。
主に鍛えられた人たちは、弱くされました。体や気持ちが弱くされたとき、内側には主の命があふれました。同じ様子が、他の人たちからも読み取れます。
人間の親は、可愛い子に旅をさせて、たくましく育てようとします。主は愛する者を鍛えて、弱くしようとなさっています。
聖書の他のところには、次のようにもあります。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(2コリント4:16)
主はわたしたちを鍛えて、わたしたちの「外なる人」を弱くしてくださいます。すると「内なる人」(イエスさまの命に生きる人)は新たにされます。
主は愛してくださいます。喜んで弱くされましょう。わたしたちの「内なる人」は日々新たにされ、主は「御自分の神聖にあずからせ」てくださり、「義という平和な実を結ばせ」てくださいます。(ヘブライ12:10,11)
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