【エフェソ2:8】
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
「あなたは救われていますか?」と聞かれたら、どう答える?
キリストを信じているなら、「わたしは神さまの恵みにより救われています。」と答えられます。それが「事実」ですから!
ときどき、御言葉の事実と自分の経験にギャップがあることがあります。たとえば放蕩息子のお兄さんのように。
彼いとっての事実は、父親から愛されている子でした。でも彼の経験は「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(ルカ15:29)と言っているように、愛されている子ではなく、奴隷のようでした。
事実と経験がピッタリ合っていれば平安ですが、合っていないと、その分、不満や不安が広がるでしょう。
「事実」は、「救われました。」です。神さまは、罪のために死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし、キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(エフェソ2:5,6)。
神さまからが成してくださった事実を受け取りましょう。キリストを信じる信仰によって。
事実は経験となり、主にある平安が満ち溢れますように。
2013年6月11日火曜日
キリストの愛にとどまる
【ヨハネによる福音書 15:9~12】
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
イエスさまは、「わたしはまことのぶどうの木、・・・。わたしにつながっていなさい。」と話し出して、上の言葉を語られました。
コンビニだって7時~11時より、24時間開いている方が便利です。イエスさまにつながっているのも、年中無休の方が喜びが満ちます。
どうすれば、いつでも、どんなときでも、イエスさまにつながっていられるのでしょう?
「わたしの愛にとどまりなさい。」とも、イエスさまはおっしゃっています。
すでにイエスさまが、とらえてくださいました! だからその愛にとどまりなさい、というわけです。
イエスさまの掟を守るなら、イエスさまの愛にとどまることになります。イエスさまの掟は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」です。
イエスさまにつながろうとして、聖書を読んだり祈ったりしたとしても、もし誰かを憎んでいたら...? 人を愛そうとはしないで、イエスさまにつながっている、というのには無理がありそうです。
掟を守るのは、最初は苦労するものです。慣れていないですから。焦らず、少しずつですね。
少しずつ、でも確かに、イエスさまの喜びがわたしたちの内にあり、わたしたちの喜びが満ちてきます。
イエスさまの愛にとどまりましょう。すでにイエスさまがとらえてくださいましたから。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
イエスさまは、「わたしはまことのぶどうの木、・・・。わたしにつながっていなさい。」と話し出して、上の言葉を語られました。
コンビニだって7時~11時より、24時間開いている方が便利です。イエスさまにつながっているのも、年中無休の方が喜びが満ちます。
どうすれば、いつでも、どんなときでも、イエスさまにつながっていられるのでしょう?
「わたしの愛にとどまりなさい。」とも、イエスさまはおっしゃっています。
すでにイエスさまが、とらえてくださいました! だからその愛にとどまりなさい、というわけです。
イエスさまの掟を守るなら、イエスさまの愛にとどまることになります。イエスさまの掟は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」です。
イエスさまにつながろうとして、聖書を読んだり祈ったりしたとしても、もし誰かを憎んでいたら...? 人を愛そうとはしないで、イエスさまにつながっている、というのには無理がありそうです。
掟を守るのは、最初は苦労するものです。慣れていないですから。焦らず、少しずつですね。
少しずつ、でも確かに、イエスさまの喜びがわたしたちの内にあり、わたしたちの喜びが満ちてきます。
イエスさまの愛にとどまりましょう。すでにイエスさまがとらえてくださいましたから。
2013年6月5日水曜日
神さまに近づく
【エフェソ2:16-18 3:11,12】
十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
・・・
これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。
神さまに近づけられると、どんな気持ちになる?
神さまは憐れみ深く、この上なく愛して下さる方ですから(エフェソ2:4)、うれしくなります。うれしくて、もっと近づきたくなります。
神さまにもっと近づくには?
神さまは、わたしたち一人ひとりを、キリストの血によって近づけ、「一つの体」とし、「一つの霊に結」んでくださいました。これが教会ですね。神さまは教会を御自身に近づけられます。
神さまが近づけてくださるので、わたしたちはキリストに対する信仰により、確信を持って、大胆に神さまに近づくことができます。
教会って、とてもすごいです。一つの体とされ、一つの霊に結ばれて、神さまに近づき、神さまとの豊かな交わりに入れていただけます。
教会は、神さまがキリストによって実現された永遠の計画に沿うものです。
ハレルヤ!
2013年5月28日火曜日
主の鍛錬
【ヘブライ人への手紙12:5,6】
また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
「可愛い子には旅をさせろ」というのは、子どもへの親の愛ですが、主も愛する者を鍛えられるのですね。
どのように、わたしたちを鍛えてくださるでしょうか?
上記聖句の1章前。11章には、大勢の信仰者が出てきます。この人たちは、主に鍛えられた人たちでもあります。
その中の一人にサラがいます。サラは「不妊の女」であり、さらに「年齢が盛りを過ぎ」たとき、その内には「子をもうける力」が宿り、「多くの子孫が生まれ」ました。
主に鍛えられた人たちは、弱くされました。体や気持ちが弱くされたとき、内側には主の命があふれました。同じ様子が、他の人たちからも読み取れます。
人間の親は、可愛い子に旅をさせて、たくましく育てようとします。主は愛する者を鍛えて、弱くしようとなさっています。
聖書の他のところには、次のようにもあります。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(2コリント4:16)
主はわたしたちを鍛えて、わたしたちの「外なる人」を弱くしてくださいます。すると「内なる人」(イエスさまの命に生きる人)は新たにされます。
主は愛してくださいます。喜んで弱くされましょう。わたしたちの「内なる人」は日々新たにされ、主は「御自分の神聖にあずからせ」てくださり、「義という平和な実を結ばせ」てくださいます。(ヘブライ12:10,11)
また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
「可愛い子には旅をさせろ」というのは、子どもへの親の愛ですが、主も愛する者を鍛えられるのですね。
どのように、わたしたちを鍛えてくださるでしょうか?
上記聖句の1章前。11章には、大勢の信仰者が出てきます。この人たちは、主に鍛えられた人たちでもあります。
その中の一人にサラがいます。サラは「不妊の女」であり、さらに「年齢が盛りを過ぎ」たとき、その内には「子をもうける力」が宿り、「多くの子孫が生まれ」ました。
主に鍛えられた人たちは、弱くされました。体や気持ちが弱くされたとき、内側には主の命があふれました。同じ様子が、他の人たちからも読み取れます。
人間の親は、可愛い子に旅をさせて、たくましく育てようとします。主は愛する者を鍛えて、弱くしようとなさっています。
聖書の他のところには、次のようにもあります。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(2コリント4:16)
主はわたしたちを鍛えて、わたしたちの「外なる人」を弱くしてくださいます。すると「内なる人」(イエスさまの命に生きる人)は新たにされます。
主は愛してくださいます。喜んで弱くされましょう。わたしたちの「内なる人」は日々新たにされ、主は「御自分の神聖にあずからせ」てくださり、「義という平和な実を結ばせ」てくださいます。(ヘブライ12:10,11)
2013年5月26日日曜日
成長させてくださる神さま
【コリントの信徒への手紙 一 3:6,7】
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
自分を変えたい!と思ったことはありませんか。性格や習慣、癖、思考パターンなど...。あの人を変えたい!と、思うこともあるかもしれません。
現実は、自分を変えようとして疲れたり、変わらない自分に失望したりします。誰かを変えようとすると、その人もこちらを変えようとしてきて、穏やかではなくなります。
自分も他の人も、成長させてくださるのは神さまです。成長というのは、キリストに似ていく変化です。最高の成長です。
神さまは、どのようにして成長させてくださるのでしょう。
誰かから「植え」てもらったり、「水を注い」でもらうことを通してです。また、自分が他の人に「植え」たり、「水を注」ぐことを通してです。
誰かから大切にされ、自分も誰かを大切にすることを通して、神さまが成長させてくださいます。
自分は誰からも大切にされていない・・・と、もし感じていても大丈夫です。人となられたキリストが、「植え」てくださり「水を注い」でくださっています。大切にしてくださり、愛してくださっています。
キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と、おっしゃっています。
成長させてくださる神さまに、感謝します!
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
自分を変えたい!と思ったことはありませんか。性格や習慣、癖、思考パターンなど...。あの人を変えたい!と、思うこともあるかもしれません。
現実は、自分を変えようとして疲れたり、変わらない自分に失望したりします。誰かを変えようとすると、その人もこちらを変えようとしてきて、穏やかではなくなります。
自分も他の人も、成長させてくださるのは神さまです。成長というのは、キリストに似ていく変化です。最高の成長です。
神さまは、どのようにして成長させてくださるのでしょう。
誰かから「植え」てもらったり、「水を注い」でもらうことを通してです。また、自分が他の人に「植え」たり、「水を注」ぐことを通してです。
誰かから大切にされ、自分も誰かを大切にすることを通して、神さまが成長させてくださいます。
自分は誰からも大切にされていない・・・と、もし感じていても大丈夫です。人となられたキリストが、「植え」てくださり「水を注い」でくださっています。大切にしてくださり、愛してくださっています。
キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と、おっしゃっています。
成長させてくださる神さまに、感謝します!
2013年5月19日日曜日
聞く耳で聞く
【ローマ10:17、18】
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
イエスさまは時々、「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃっていました。聞く耳があれば、聞かない耳もあるのですね。
反対するつもりで聞く耳、都合の良いことだけ聞く耳、人事として聞く耳...は、聞かない耳?
キリストの言葉を、聞く耳で聞きたいですね。神さまが、たくさんの祝福を注いでくださいます。
キリストの言葉を聞く耳というのは、どういう耳でしょうか。
キリストに感謝しながら聞く耳、というのはどうでしょう。感謝しながらキリストに心を開くと、キリストの言葉が良く聞こえてきそうです。
あなたには、感謝できるどんな恵みが与えられていますか。新緑の木々など自然に溢れている恵み。希望、喜び、忍耐など、自分の内側にもキリストの恵みが与えられています。
キリストを思いながら聞くのも、聞く耳でしょう。キリストは、私たちがまだ罪人であったとき、死んでくださいました。キリストは今も、十字架で刺し貫かれた手を差し伸べてくださっています。
一緒にこのキリストを思い、キリストに感謝しつつ心を開いて、キリストが語ってくださる言葉に耳を傾けましょう。
2013年5月17日金曜日
愛を注がれて持っている
【ローマ5:5】わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
私は誰からも「愛の人」と、言われたことがありません。「愛の人」、と聞いて思い浮かぶのは、マザー・テレサ?
すごい人だと感心するだけで、自分には真似できない、と思ってしまいます。
人は愛ではなく、愛することもできないのでしょうか。
人は愛ではありません。でも、聖霊を受けて、愛することはできます。聖霊によって、神さまの愛が心に注がれるからです。
聖霊を受けるとき、自分が他の人を愛するのに充分な愛を注がれて持っている、と知ることは大切です。
他の人を愛するときに、何をしていいのかわからないことがあります。そのときは、その人をだた愛しましょう。心に注がれる神さまの愛を、その人に注ぎましょう。
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